<環境変化に揉まれ続けた 幼少期~子供時代>

 親の仕事の関係で、小さい頃から引っ越しと転校を、覚えているだけで7回繰り返す。群馬の高崎で生まれ・・・途中覚えていない・・・→神奈川の川崎→取手→仙台→(市内で転校引っ越し)→仙台→大阪の吹田→東京の三鷹→川崎・・・。元々、非常に引っ込み思案だったので、引っ越す度に新しい人間関係や教育環境の違いに慣れるのにかなり苦労した。厳しい環境で揉まれ続けて大人になっていった結果、変化に対して動じない「柔軟性」と「変化適応力」を徐々に身に着けていった。

 お陰様で今は新しい人間関係や環境への適応もスムーズにできるようになっていたのである。その点は親に感謝している。しかしその反面、住環境の変化が激しすぎて、習い事やスポーツなどを少しかじっては環境が変わるとやめてしまっていたので、腰を据えて長い間一貫して続ける経験が小さい頃は持てなかった。また悲しいことに、成人式も幼馴染や知り合いがそこに誰もいないため出席していない。

<多様な経験をアクティブに積み重ねた 大学時代>

 要領はそこそこ良かった。青山学院大学経済学部に入り、学業の単位もサクっと満タンとり、アルバイトも多種多様な業種40以上をこなした。例えば、家庭教師で6人の生徒を担当(小学生~中学生~高校生まで)、塾講師2つ掛け持ち、飲食業、スーパーで鮮魚と青果コーナーも担当、清掃の夜勤、駐車場管理、教材の営業セールス、CD屋、テレビ番組のエキストラなどだ。授業もちゃんと出ながら、月20万円は稼いでいた。1~2年時はテニスサークル活動、3~4年時は保険のゼミナール活動をこなし、時間ができればプライベートで旅行にあちこち出かけた。家にはほとんどいなかった。いつも「アクティブ」にどこかしら動き回っていたため、”鉄砲玉”と言われたこともあった(一度出かけたら帰ってこないという意味である 苦笑)。

 多くの予定をこなすことができた要因は、スケジュール管理の割り振り、どこにどれだけの資源を投資分配するのかという”ポートフォリオ”をうまく組んでいたからといえる。学生の頃から旅ついでに温泉巡りもセットで行くようになった。当初は、旅がメインで、温泉はまだ”オマケ”であった。しだいに主と副が逆転することになっていく。旅行プランを立てて目的を達成するための戦略や戦術を練るのも好きだった。例えば、1日に8カ所の温泉を巡るには、その日の天候に始まりそれぞれの場所や移動の制約諸条件を加味し、どういう優先順位とルートで効率よく回り、どの手段を使うのが一番よいかなどを考えた。現地に行ったら臨時休業などもあったが、複数のプランをシミュレーションしていたので、予備のプランBや奥の手を採用することでうまく立ち回ることができた。また、友達と一緒に寝袋を持って北海道一周旅行へ行き、スコップで地面を掘って温泉の自家製露天風呂を作って入ったり、熊が出ることで有名な知床にあるカムイワッカの滝を夜中に登ったりした。ヒッチハイクを僕自身が行ったこともあるし、逆にヒッチハイカーを拾って車で送り届けたこともある。※当時は、今の時代よりいろんな意味でゆるかった。

 未知の分野へ果敢にチャレンジする「好奇心」と「リスクテイキング」の起業マインドも学生時代から芽生えていた。但し、何でもかんでもリスクを取りにいくというのではなく、僕は保険のゼミであったので、リスクを管理(分析・計量評価)することは最低限行っていた。例えば海外へ行って、ロスやマイアミでこの道に入ったらヤバイとか、イギリスでこの店に入ったらボッタクられるからヤバイとか、アジアのスラム街でこのエリアに立ち入ったらヤバイなどという危機察知能力も少しずつ実践で鍛えられていくことになる。

<猛烈なインプットに明け暮れる 社会人時代>

 大学卒業後は、4つの内定先の中から一番チャレンジ度が高い(逆に言うとリスクが1番高い)流通業界の会社を就職先に選んだ。ゼミのコネで保険会社という選択もあったのだが断って、(安牌ではなく)敢えて”危険牌”で勝負に出たのだった。1年目は店舗で衣料品販売に従事した。全く希望していなかった女性服売り場だった。女性だらけの職場では、その環境でしか学べない”水面下の人間模様”を学べたのは貴重な経験となった。この時期は毎晩のように飲み会をやって、お酒ばっかり飲み、〆のラーメンも好きでよく食べていた。飲み会の主宰・幹事も積極的に引き受けてよくやっていた。お陰で交友関係は大いに広がったが、体調管理を全くしていない状態で暴飲暴食を続けた結果、体調はこの後下降していくことになる。

社会人になって初めての大きな転機が訪れる

 2年目からは本社で業務改善指導を行う監査部門へ配属。自分から希望を出した訳ではないが、たまたまポジションに空きが出て、僕に白羽の矢が立ったのだ。今思うと僕は非常にラッキーだった。会社から給料をもらいながらリアルな経営の現場を学べるポジションへの異動だったからだ。北海道から沖縄まで、多業種の関係会社や店舗に毎月出張した。本当にいろんな業種(スーパー、百貨店、コンビニをはじめ、警備会社、パチンコ、牛丼、ハンバーガー屋、給食事業、不動産、建設、エンターテインメント、球団運営、人材派遣、保険、マルチ商法の会社まで)会社内部に入りこんで仕事をした。もともと見知らぬ土地に出かけるのは大好きだったので、最初のうちは全国を喜んで駆け巡った。僕は、スケージュールの作成に始まり、ホテルや新幹線の手配も担当していたので、出張期間中に中休みを(わざと)設けたり、市場調査という名の観光も行った。※今では無理芸である。

 しかし、仕事は甘くなかった。まともな休暇はなく、サービス残業も多くホテルや家に持ち帰って資料作成をする日も多く、とにかく日々忙しくハードな現場だったのだ。会社の机でパソコンをやりながら寝たこともある(内緒の話だが・・・今は時効)。上司に蹴飛ばされたこともある(これも時効。暴力かつ暴言を吐く上司がいて今だったら完全にパワハラだけど・・・)。ハードな環境ではあったが、監査在籍中に僕の改善指導が評価され「会社表彰」を7回受賞し新記録を作った。

自己投資の嵐!

 この時期、簿記の資格取得、経営分析全般の勉強、日曜日は毎週「経営の神様・師匠」のところへ経営の勉強に行き、会社に内緒で(住宅手当などをもらわずに自腹で)通勤しやすい場所に一人暮らしをした。自分で物件探しをするのも社会勉強の1つである。いつも出汁の香りがプンプンする蕎麦屋の2Fで五畳ほどのワンルームであった(懐)※令和になった今現在もその建物は健在であった!数年前に自転車で見に行ったのである。毎朝6時に起きて出社前にカフェへ行って朝勉をすることを習慣としていた(ドトールの常連で顔を覚えられていた)。本も年間200冊以上のペースで読みまくった。そこまでやる必要があったのは、入社してたった1年の経験不足で生意気なこの若造が、30歳以上のベテラン社長や経営者、いわゆる”猛者達”とまともに対話をしてもらうためには、とにかく猛烈に勉強して知識武装をしまくるという1択しかなかった(明治維新時の危機感とも似ている)。最初、猛者達は僕の話になど耳を傾けてくれなかったため、非常に悔しい思いをして苦悩しながら寝る間を惜しんで勉強しまくる日々が続いたのだった。その結果、しだいに僕は発言権を得るようになり、発言が一目置かれるようになる。

 投資の時代がこれからくるということを鑑み、株式投資もサラリーマン時代から少しずつスタートした。最初は配当と優待狙いであった。経済学部であったので、経済・金融と企業分析の”いろは”の”い”くらいの基礎知識は持っていた。この時もいい上司に恵まれた。企業の勉強のために上司の代わりに株主総会に出席させてもらったりもしたのだ。感謝しかない!とにかくこの時期は、完全休みの日など記憶にないくらい「がむしゃら」に働いたし勉強もした。この4年間は遊びは一切なし。今思えば、この時期の猛烈なインプットが今の思考のベースとなって役立っている感がある。

そして退社へ・・・

 ただし、体調管理をせずにかなり無理を重ねていたため心身に疲労を溜め込み続け、実はボロボロ状態で限界が近づいていた。月曜日から栄養ドリンクをよく飲んでいたし、週に3回ほど整体院や接骨院に通い対症療法でなんとかもたせていた感じであった。僕はバイト時代に鮮魚や青果売り場で「いらっしゃい~いらっしゃい~×10連発」など声出しも鍛えていて得意としていた。返事や声は大きく、マイクを使わずにワンフロア全体に響き渡る活気あふれる通る声で呼び込みをやっていたので、ムードメーカーとも言われた。周囲には元気そうに見えていたようだが、ぶっちゃけ”空元気”であり体調は良くない状態が続いていた。実際この時期に、健康診断で内臓の要検査に始めて引っかかったのである。

 結局、監査は4年間自分にムチを連打しながら頑張りきった。競馬でいうと、第3コーナーから捲って行ってムチ打ちっぱなしでゴールまで持たせた感じであった。会社の将来や経営数字の不安が見えたということと、もともと独立起業願望が強くあり、一回きりの今世で一旗揚げてやってやろう!という思いも強かったので、経営の基礎を叩きこんだタイミングで退社を決意。5年間のサラリーマン生活に終止符を打った。

<世界に飛びでて ジャジャジャジャ~ン 海外視察時代>

 退社後、海外を20カ国ほど約1年かけて1人で放浪する。NYではすべての経験が新鮮で、毎日いろんな地下鉄で出かけ、全線を巡りに巡った。canalストリート、チャイナタウン、セントラルパーク、99ショップ(当時はまだ日本には百均ショップがマイナーだった)などは良き遊び場であった。毎日が刺激的かつ面白過ぎて、知人のいるブロンクスであっという間に1カ月滞在をした。この時に、ナイアガラの滝や、カナダへ行ったりもした。とにかく見るものすべてが、日本のスケールとは桁が違うことに圧倒された。

 いろんな文化圏の海外を巡り、近所の集まりのパーティに参加したり、現地の人とも交流してみて改めて気づいたのは、日本も素晴らしいと思っていたが、日本にはない素晴らしいものも世界にはたくさん存在すること。例えば、ヒーリングや心身を整える治療アプローチなどに出会えたのは大きかった。あちこちで欧米とアジアの価値観の大きな違いも肌で体感できた。

 日本という小島、日本の1つの会社という小さな世界の内側からの視点だけでしか物事を見ていないと、視野や発想はどんどん狭くなっていく。これからのグローバル社会・ボーダレス社会において、内輪から外に飛び出して外から俯瞰する視点は必要不可欠と実感。社会人経験を経てからの海外渡航は、学生の時と見方・視点が異なるから、ビジネス的視点で物事を捉えるきっかけとなり有意義な経験となった。

タイマッサージとの出会い

 当時の日本にはない新たな発見をたくさん見出す中で、一番衝撃的だったのがタイで受けたタイマッサージであった。世界3大マッサージの1つでもあるタイマッサージは気持ちいいだけではなく、その奥深さ・精神性と技術の素晴らしさにはとにかく感銘を受けた。当時、タイマッサージは日本ではまだマイナーであった。一旦帰国後、すぐに現地のマッサージ学校へ習いに行った。

 1998年に始めて僕がタイへ行った時は、買い物をする度にボッタクられた。僕は”カモ葱”だった。相場を知らないと平気で10倍くらいの値段を吹っ掛けられることはザラである。ボッタクられるのも人生における社会勉強の1つである。次の訪問からは同じ手は食わなくなった。原価や相場観も学んだし、最初にだいたいこれくらいの高額をふっかけてくるという悪徳の典型的手口もわかった(東南アジアでは”ドアインザフェイス”テクニックを使う所が多い)。タイ語も少し勉強して片言しゃべれるようになったし、商談の交渉術も少しずつ鍛えられローカル人と間違えられるようにさえなった。※タイ語の発音が上手いからではなくて、”風貌”がだんだんタイ人っぽくなってきて、現地人に「コンタイ」とも言われたのである^^”。タイはマッサージだけでなく文化、人のおおらかさ(アバウトさ含む 笑)や優しさ、食事、観光などを含めて、ものすごく自分にとって癒しの場となった。タイマッサージを通じて、人生において「心身の癒し」がいかに大切かを身に染みてわかるようになった。大切なことに気づかせてくれたタイランド!本当にありがとう。

反省・・・そして健康への覚醒

 サラリーマン時代は、ちゃんとした心身の癒し方を実践していなかった自分に気づき大いに反省した。遅ればせながら、心身をメンテナンスすることの重要性にこの時期ようやく目覚めたのである。その後も、合計16回に渡り訪タイし、いい先生がいると聞けば、マッサージの先生に国際電話で直談判をし指導を申し込んだ。中でも、チェンマイの「ワンディー先生」はとても記憶に残っていて、先生の自宅で60Hのマッサージ特訓を受けた。扇風機1つが回る37℃の部屋でのマッサージ特訓は、相当体力的にはきつかったが、今となっては一番の思い出となっている。

 タイには癒しの技がたくさん存在する。この際、徹底的に学んでやろうと思い、オイルマッサージ、薬草マッサージ、ルーシーダットンをはじめ、エカマイにある「ムエタイ道場」にも2回入門した。脚がつるというパプニングにも見舞われ1日で引退(笑^^”)。

 もともと”人体”の構造に非常に興味をもっていたため医学書・古典を読み漁り、タイマッサージのみならず、リフレクソロジー・整体学校・矯正の学校・日本のマッサージ学校も卒業し国家資格も取得した。マッサージ学校では、3年間ほぼ休みなく仕事をしながら、毎日4時間睡眠を継続。親がガンを患うという状況下で勉強と仕事と家庭の両立をなんとか図り、150人超の学校在籍者中、実技含む全成績№2で卒業できた。この時期は本当に睡眠不足でしんどかった・・・

 僕のポリシーは現場主義であるので、気になったことは自分の目と足でそのルーツを肌で確認し経験したかった。そこで今度は、ヨガのルーツであるインドの「リシュケシ」へヨガ修行に行った。インドでは食あたりにあって倒れ、2日間のたうしまわって飯も食えずに死ぬかも思った。現地の人の助けもあり、なんとか復活を果たした。ほろ苦い思い出である。

 全米ヨガインストラクター資格を取得する詐欺にひっかかってしまったが、すったもんだの末、なんとかツアーも開催できて、資格も取得することができた。ヨガを体系的に学ぶことは心身両面のコントロールに非常に役に立った。人生を通じてこれからも役に立つと思う。

 人体をトータルで診るためには、運動・休養だけでなく、食事も大事との想いがあり、夜学で調理師学校へ行き調理師免許も取得。但し、後で気づいたことですが、僕は食べ物を”作る”ことよりも、美味しいものを”食べる”方が好きであるということでした(ちゃんちゃん!食いしん坊万歳のふじでした)。その後も、漢方スクールで食材の知識の幅を広め、人体という組織を「食事・運動・休養」の3方向からトータルかつ複合的に診る「統合医療的治療アプローチ」を究めてゆきました。2000年11月に念願であった自分のお店「らくーん22」という治療サロンの独立開業にこぎつけた。夢と希望をのせた「らくーん号」の門出である。

<新たなフロンティアへの挑戦と襲ってくる数々の困難>

 開業後まもない頃は、来るもの拒まずで仕事も人もすべて”ご縁”と考え、「ノー」と言わず、非常に非効率ではあったが、値段に関係なく来た話の全てを引き受けた。セミナーやお教室の講師の仕事も、お陰様でたくさんの依頼をいただき、企業向け・一般の健康セミナーお教室・技術的なセミナーなどたくさん開催することで、独立して間もない実績のない僕が経験値を稼ぐことができた。準備7割でスタートを切った店舗経営であったが、なかなかの順調な滑り出しを決めて、3カ月くらいでいきなり雑誌の取材の申し込みが来たり、新規の会員メンバーもリピーターも右肩上がりに順調に増えていった。イベントも次々と開催し集客拡大に成功していき順風満帆に見えた。目の前のことに一生懸命で、これから怒涛の如く試練が降りかかってくるなどと夢にも思っていなかった。人生とは自分が思い描く計画通りには進まないものだ。開業してからの特に10年間に起こった出来事を振り返ってみよう。

次々と襲ってくる災難苦難の連続

 まず、お店の入口のガラスを割られて泥棒に入られた。現金や大切な現金類似物が盗まれてしまった。当時、ダイエットコースなどの回数券を販売していた。先にもらっていたお金まで盗まれてしまったため、一カ月ただ働き状態となった。近所からの通報があり、僕がお店に駆け付けた時は、割れたガラスの破片で散らかったお店をただ茫然と立ち尽くすだけだった。どこにもぶつけることができない怒りと悲しみを胸に抱えて・・・。防犯管理の重要性を痛感したショッキングな事件であった。

 続いて、車の追突事故に遭った。車の後ろのトランクが衝撃により山になって、後ろのガラスが全部割れれしまった。衝撃はかなり強かった。しかし、体の方は軽いむち打ち程度で済んで大きな後遺症となる怪我は避けることができ、不幸中の幸いであった。ちょっとした油断があると事故を招くことになる。気を引き締めることの重要性を学んだ。

 続いて、インドではお腹を壊して2日間のた打ち回り苦しんだ。食中毒だと思う。インドの田舎の方は英語でさえも通じない。言葉も通じない異国の地で、食事も喉を通らず病院にも行けずにこのままここで苦しんで野垂死ぬのかと、僕にしてはネガティブに考えてしまった。初めて死を意識した瞬間である。しかし、現地の人の助けもあり奇跡的にその状態から復活することができた。異国の地で本当の感謝の意味を知った。

 続いて、お店で一番お世話になっていた取引先の会社が、ある日突然倒産。当時、その会社からのお客様が売上の4割以上だったので、それが急にごっそりなくなり屋台骨が揺らいだ。しかし、剰余金を確保していたためこの危機もなんとか潰れずに持ちこたえることができた。教訓として売上を1つの柱に依存することは危険であるとしみじみ実感し、以後は売上の3本柱をつくるように改めた。

 続いて、ヨガの海外留学詐欺に遭い一部の金(数十万円)が戻らないという事件に巻き込まれた。ビジネス市場には最初から騙そうと悪意をもった人が必ず一定数いるので、本当に信用できる人を見ぬく”眼力”を磨くことの大切さを学んだ。資金回収の交渉には多少難儀はしたが、結果的にはヨガの国際資格も取得でき、ヨガツアーも開催しそれに参加できた。これも1つの教訓および社会勉強となった。

 その後も、プライベートで立て続けに悲劇が追い打ちをかけた。親のガン、17年飼っていた猫の死、濡れ衣を着せられ、子供も喪失した。僕はついに人生のどん底に突き落とされたのである。いつも元気そうに見えたこの僕が、生きる気力をはじめて失くし追い詰められ自殺も考えた。幻視と不眠という2大症状に襲われたのであった。そこに存在しない恐怖のモノが見えたりしたのだ。

困難を乗り越えろ!

 これを乗り越えるためにいろいろなことをした。最初にやったことは、スケジュールをすべて埋めること。暇な時間がありすぎると良からぬことを考えてしまうからだ。心療内科カウンセリングも受診した。近くの禅寺へいき座禅や瞑想も実践し目の前のことに集中することを学んだ。般若心経を1日に何百回も唱えたりもした(お陰様で「ぎゃーてーぎゃーてー」覚えました^^”)、呼吸法を実践した。温泉にも行きまくった(笑)。心理学の本も読みまくった。とにかく思いついたことはいろいろやってみたのだ。結果、降りかかってきた試練と困難を乗り越え甦ることができ、今もこうして元気に生きています。これらすべての試練を乗り越えられたことで、今後の人生で何が起ころうとも少々のことではめげず動じない「自信」「レジリエンス力」そして「楽観性」を手に入れることができた。

困難は乗り越えると人生の大いなる”ギフト”と化す

 人生では、本当に想定外の”負の出来事”が定期的に無差別に、それも連続して襲ってくる。まさに”盗っ人に追い銭”状態が起こりうるのです。リスクマネジメントが甘かった過去の自分を反省し、失敗する時の3原則、①情報&勉強不足 ②傲慢過信 ③思い込み、これら3つを排除しようと心に誓ったのだった。失敗を教訓にし、再発防止のための軌道修正と更なる改善をこれからもしてゆきます。

 雪が降ってお客様が誰一人来ないのも自分の責任だし、東日本大震災で全く人が歩いていない状況で売上50%以下になっても自分の責任。取引先がコロナウイルスに感染しある日突然仕事が一斉にゼロになっても自分の責任。国からの補助はなし。20年間すべて【自己責任】でお店の運営をやってみると、プライベートを含めて本当にいろいろなマイナスの出来事に遭遇しました。20年間持続できたからこそ見える景色と経験できた価値ある事もあったので、持続することの大切さも噛みしめた。

困難を乗り越えられた本当の要因とは?

 人生を投げ出さず、心身をとり乱さずに困難を乗り越えられた真の理由は大きく2つに絞れると思います。1つは、ヨガと瞑想を行っていたからと言えるでしょう。呼気をゆっくり行い、冷静に状況判断して再発防止策を打ち「心を切り替えてより良い形に立て直す」ことができたのだと思います。

 もう1つは、非常にいいメンバー(お客様)との出会い・人とのご縁に恵まれたことです。お店に泥棒が入ったことを聞きつけてすぐにかけつけてくれたり、地震の時は何か足りないものはないか?と言って消耗品を持ってきてくれたり、凹んだ時に温かい励ましの言葉をいただいたり、お見舞い手紙をくれたり、感謝のメッセージをいただいた。これらは僕に真の勇気を与えてくれた。本当に素晴らしい方との出会いのご縁には感謝しています。人生は出会いの連続で成り立っている。これからも人とのご縁と出会いを大切にしてゆきたいと思います。20年間、店長兼施術者として、難病をお持ちの多種多様な患者様累計3万人の方の治療サポートに従事することができたことに感謝いたします。ありがとうございます🙇

<おまけ> ~温泉巡りという趣味~

 ところで僕の1番の趣味は、ご存じの通り温泉巡りです。28年かけて日本全国(北海道から沖縄まで)1000湯以上巡っています。ある日、僕の温泉ブログ(アメーバブログ)をみたテレビ番組のディレクターから直接お声がかかり、温泉のテレビ番組にゲストとして出演が急遽決定。ここ3年間で14回のテレビ生出演(テレビ東京、日本テレビ)および温泉取材(FMラジオ出演、雑誌のインタビュー)も果たしました。温泉の活動も一生の趣味として今後も続けてゆきたいと思っています。まだ未踏の温泉も全国にはたくさんあるし、宿題は山積みです。仕事が休みの日で、天気が良ければ即効で温泉計画を立てて出かけ、天気の悪い日は読書に励む”晴耕雨読”が僕のモットー。読書の蔵書は4000冊。自ら本も出版し近年はkindle電子書籍(らくーんミニBOOKSシリーズ)を10冊以上執筆。書くことは全く苦にならず、アメーバブログも2005年に始めて以来、毎日1記事以上はアップし続け、現在も累計77000投稿を継続中。特にキャンペーンやSEOなどアクセスアップは何もやらずに、自然に読者が増えていき1000人を超えている。ブログは発信力とともに情報整理に使えるので、いつでもどこでも情報を引き出せて見直せるメモ代りのツールとしても活用しています。今後も「継続は力なり」を実証し続けます。アメーバブログありがとう!!

<今後の使命>

 これからは今まで習得した知識と経験を【総括統合】し、心身の健康でお悩みの方、困っている方のお役に立ち【他者貢献】して参ります。学びの”点”が”線”になってつながり、やがて”面”になる。知恵の【アウトプット】の機会もどんどん広げていくつもりです。ブログのみならず、リフレクソロジーやタイマッサージのセミナー、公向けの健康セミナーや講習会につきましても、タイミングをみて復活&再開を考えています。現在は、住居の一角で施術を行う傍ら、訪問診療をメインに行っています。歩行がなかなかできない方は、私の方からお宅に訪問しています。現在の訪問エリアは、新宿区・中野区・杉並区・渋谷区ですが、他エリアも応相談。

 今まで、他の医療機関などで見捨てられ、死を覚悟した人を何十人と【蘇生】し、歩けない人を歩けるようにしてきました。2021年度末に「先生、あなたのおかげで年を越せました。もう越せないと半分諦めていました」と涙ながらに患者様から直に語られた時、死を覚悟したことがある僕は胸がジーンと熱くなりました。難病で複数の病名を掛け持ちしていますその患者様のところへ、現在も毎週施術に行っていますが、その後も順調に回復基調を維持しており、最初歩けなかったのですが、2カ月経った今は杖や歩行器併用で歩けるようになりました。このような感謝の言葉を、今年は昨年の「2倍」頂けるように治療と貢献のアップに全力を尽くして参ります。

命は拾われた! 癒し王ふじは本当に運がいい!!

 僕は本当に【運のいい人間】です。数年前、高速道路を時速100キロで走行中に車のタイヤがバーストしてハンドルを取られ車が左右に振られた時、まじでヤバイ!と一瞬で察し血の気が引いて全身の鳥肌が立ち、人生の終わりを確信したのです。本当に死を覚悟した瞬間でした。それまで無宗教であった僕が、「あ、神様!」と思わず叫んでしまったのです。

 奇跡的な複数の環境条件(近くに車が走っていなかったこと、天気も良かったこと、ICから近かったこと、後ろタイヤだったこと、バースト後少し自走可能だったこと)に恵まれて、車を何とかコントロールして立て直し、1発アウトの高速道路での大事故を免れました。本当に運がよく、命拾いした実経験です。因みに、その直近の飯が普通のラーメン(600円)だったので、最後の飯がラーメンじゃ死にきれない!と後で思ったしだいです。

 この事件以来、人生を後悔なく生きたい!毎日を後悔なく大切に充実して過ごす!と心に誓いました。死を覚悟する経験というのは、生を大切に認識して生きる上で、僕は必要不可欠だと思っています。この経験があるからこそ、生の本当の大切さや人生時間は有限であることに気づけたのです。生きているということ自体が複数の条件が重なりあった結果の”奇跡”であり、環境に生かされているという感謝の心が沸き上がります。高速道路事件、ありがとう🙇

 僕の奇跡のパワーを、あなたとあなたの大切な家族のお力に生かせれば幸いです。最後まで長い長い文を読んでいただき本当にありがとうございました🙇

        癒し王ふじ 

お仕事の依頼 rakuun22rakuun22@gmail.com

運のいい人間である、ふじと絡みたい方はメールにてどうぞお気軽にご連絡ください

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